先日聞いていた奇奇怪怪というラジオの中でかなりおもしろい話をしていました。
あるミュージシャンが、マネージャー的な人がSNSで小さい文字でtodayとだけ投稿していたことがきっかけで喧嘩になったという話。
「ぱっと見意味がわからないような告知をするな、そのせいで来れない人がいたらどうするんだ」と、ごもっともな意見です。
この話の「today」とだけ告知するような、ある種スカした感じはどこからきてどこに行ったのか。
当時からそのコミュニティの外の人にはダサいと思われてたと思います。私もそう思ってました。
SNSが発達しいろんなコミュニティを横断することが普通になり客観的な視点を持つきっかけが多くなったことが、いわゆるカリスマ的な存在がいなくなったのかなと思います。
一方で、なにかしらを熱狂的に追いかけるカルチャーは今の方が盛り上がってるとも思います。ファンダムという言葉も生まれました。
なにかにのめりこみたい欲求は、他人の視線、または自分自身の客観的視点から逃れたい欲求から生まれているのかもしれません。
話は戻って、私はダサいからとただ否定するのは反対です。批判が生まれないものに魅力を全く感じません。マイナスのマイナスはプラスだという計算式は強く否定したいです。
ダサくてもいい、何してもいい。もちろん責任をとる前提である程度なら迷惑者でもいいというのが持論です。
今回ダサいとは何かについて考える中で、一周回って同じ場所に戻ってきたら見える世界が違う感覚になりました。
アルゴリズムに埋もれてしまってるが、世界はそんなに変わってないとも思いました。

