手塚治虫先生の短編集「メタモルフォーゼ」は
1974-1976年に
月刊少年マガジンで連載された作品です。
この短編集のテーマは
タイトル通り”メタモルフォーゼ”です。
単に「変態、変化」という意味では収まらない、
多様な”メタモルフォーゼ”に
関する物語が描かれています。
外見の変態、内面の変化を描くことで
揺るがない”絶対的なもの”が
浮き出てくる作品だと思います。
この作品を
・崇高な精神
・人為的な束縛から精神の解放
2つのテーマを中心に考察していきます。
まず、全7話からなる短編集を1話ずつ
あらすじは極力短めに解説していきます。
第1話 「ザムザ復活」
〜あらすじ〜
生物の絶滅を防ぐ為に
罪人を別の生き物に改造する世界。
主人公ザムザはライオンに改造された恋人
エレーナを殺されたことに憤慨し
同僚を殺してしまう。
醜い虫に改造されたザムザは
名前を呼ばれたことで人格を取り戻す。
復讐を果たした後
虫の体で生きる運命を受け入れ飛び立つ。
この物語で特筆したいことは
人為的に別の生き物に改造されようとも
ザムザとエレーナの恋心は変わらなかった事、
醜い虫を変えられようが
ザムザという誇りは揺るがなかった事です。
精神はいかなる肉体に改造されても
揺るがないもので
人の手には触れられない
崇高なものだと感じました。
醜い虫に改造されたザムザが
誇らしげに、美しく羽ばたくラストシーンには
ザムザの精神の誇り、美しさが現れています。
第2話 「べんけいと牛若」
〜あらすじ〜
体が大きく強面であることで
周り恐れられているべんけいは、
可愛いものが好きで
ファッションデザイナーを夢見ている。
外見のイメージと内面の違いを
バカにされた事を悩むべんけいだが、
体が小さい牛若との出会い、
誘拐された少女を助けたことがきっかけで
精神的に大きく成長する。
子供から大人への成長は肉体的にも精神的にも
一種のメタモルフォーゼと言えます。
外見のイメージと実際の自分との乖離で悩む
べんけいがこの外見を受け入れた上で
最後は自分の夢に向かって力強く歩んでいく、
外見によって押し込めていた
精神を解放する物語です。
前から疑問を持っていましたが
「外見は一番外にある内面」という言葉に
私は賛成できないです。
外見で判断されることは
少なくはなっている風潮ですが
まだまだ無くなってはいないと思います。
べんけいのありのままの自分に
誇りを持って胸を張って生きている様は
本当にかっこいいと感じました。
余談ですがべんけいというのははあだ名で
本名は「凸 卍(でこ まんじ)」です。
第3話 「大将軍 森に行く」
〜あらすじ〜
戦死寸前でなんとか生き延びた雨月大将は
辿り着いた村で2人の少年、少女に助けられ
友情が芽生える。
雨月大将は2人が人間ではなく
木の精霊であることを知る。
2人の願いを叶え結婚を取り持つが
その後すぐ戦死してしまう。
この物語は
有限の命から永遠の命へのメタモルフォーゼ、
限りある命からの解放だと感じました。
「人は忘れられた時が本当の死」
なんてことを言いますが、
雨月大将は戦死しても尚、
2本の木の養分となり
生き続けていると思います。
雨月将軍は
「この戦争は日本が正しい」と発言しており、
「なぜ人が人を殺す戦争をするのか」
という問いにも
「これがヤマトダマシイだ」と答えています。
極端な思想に
疑いを持たずにいた雨月大将ですが、
ラストでは村を守るために
軍に逆らい戦死します。
雨月将軍は本来の良心を取り戻しました。
本来の良心が解放されたと言えます。
また、木が結婚するという話に
衝撃を受けました。
木にも1本1本精神が宿っており恋もする。
「全ての生き物に生命が宿っている」
当たり前のようなことでありますが
この物語を読んで再確認しました。
第4話 「すべていつわりの家」
〜あらすじ〜
人類最後の一人になってしまった久は
記憶を消されて悪魔に保護されている。
人類滅亡の夢を繰り返し見ることで
記憶を取り戻した久は
天国の神様に助けを求めるが断られる。
悪魔が久を救済し
悪魔と人間で新しい世界を創っていく。
宗教観に一石を投じる作品。
精神は天国に行くとか
生まれ変わるとかに拘らず自由なものであると
この物語を読んで感じました。
宗教も精神には関与しない、
天国が善、地獄が悪ということも関係ない、
ただそこにあるだけというような
極めて平等な考えが
本当の解放と言えるのではと感じました。
関係ないですが神様が救済を断る理由が
”予算の都合上”
っていうところに笑ってしまった。
予算っていくらかかるん?
天国にも税金とかあるんかな?
とか思ってみたり。
第5話 「ウオビット」
〜あらすじ〜
満月の夜に変身し人を襲う人狼を退治する
ロックベルト男爵自身も人狼になってしまう。
人狼を全て退治するという使命を果たした末、
自らも命を落としてしまう。
悪魔に取り憑かれた人狼を退治していた
ロックベルト男爵も人狼になってしまう
という皮肉。
殺すべき人狼に自らがなった結果、
全ての人狼を殺して自分も死ぬ
という道を選ぶ。
自らの行い、運命を背負い
残された人生で何をするのか、
「あしたのジョー」、「ヒミズ」のムードに
似ていると感じた。
結果として、
同種族を駆逐する運命に立たされた
ロックベルト男爵ですが
人間であった時の使命をやり遂げた。
前話で悪魔が善である話だったが、
この話では悪魔の血統は
駆逐すべきものだとされている。
善悪は普遍的なものではない、
流動的なものあるとも読み取れる。
第6話 「聖なる広場の物語」
〜あらすじ〜
1本の大木で西側の主と東側の主が争っている
主達は化学廃棄物で汚染された砂を被ることで
強く、大きく変身していく。
主は権威を振りかざすようになるが
勇敢な一羽の小鳥が反旗を翻す。
毒に侵された主達は争いの末命を落とす。
この話のメタモルフォーゼは”変異”
という訳がしっくりくる。
人間が造り出した異物が原因の変異で、
環境問題の提唱、
人為的な繁栄は刹那的でしかない
というテーマもあるが、
それよりも、
傷つきつつも人工物に屈しない自然の偉大さ、
精神の力強さがテーマであると思います。
最後の一コマで
片足がもげ、羽がちぎれた小鳥が、
凛として立つシーンに象徴されています。
第7話 「おけさのひょう六」
〜あらすじ〜
昔、佐渡の村にひょう六という
踊りの上手い小作人がいた。
代官様をバカにする踊りがウケていたが
怒りを買って踊りを禁止される。
命令を無視し踊り続けたひょう六は
両目を切られてしまう。
ひょう六が踊れなくなったが
おけさという女性がひょう六の踊りを継承し、
おけさが島流しにされると
猫のチリがひょう六の踊りを受け継ぐ。
ひょう六の魂は踊りにこめられ
脈々と受け継がれていく。
作品を通じてその人の人格、
人となりが感じられることは、
あらゆる表現物の素晴らしい点で
精神は作品に宿り生き続けると思います。
この物語ではひょう六の精神は踊りを介して
永遠のものとなりました。
まとめ
この短編集を通じて、
精神はどんなものにも束縛されない
崇高なものという印象を受けました。
そしてそれは人間だけではなく
「大将軍 森へ行く」の2本の大木、
「おけさのひょう六」の踊りのように
動物、植物、作品など
あらゆるものに宿っています。
ありのままに生きる、
運命を受け入れ使命を全うする
これを私は精神の解放と考えます。
「べんけいと牛若」のべんけいは
見た目から自分の趣味、夢を隠していたが、
ラストではこれが自分だと
胸を張って自分の信じた道を歩き出した。
「ウオビット」のロックベルト男爵は
自身も人狼になってしまった運命を受け入れ
それでも尚、自らの使命をやり遂げた。
明るい結末、暗い結末があるが共通して
置かれた環境、運命に逆らい
打破しうる力強さを感じられます。
人為的な縛りは極端であったり、
流動的であったり、表面的であったり
絶対的に運命を決定づけるものではないです。
「大将軍 森へ行く」の雨月将軍は
極端な思想に本来の善人の心を縛られていた。
「すべていつわりの家」の久少年は
善悪の流動性に振り回された。
「べんけいと牛若」のべんけいは
表面的な外見のイメージにより
自分の夢を隠していた。
与えられた環境、運命を受け入れ
自分はどう生きるのか決めるのは
他ならぬ自分自身の精神であると感じました。
命とは何か、
自分という存在とは何か考えさせる作品です。
見た目、身分、思想、宗教、科学、
いかなるものにも
精神は束縛されないものという考えは
現在にも通ずるテーマなのではと思います。
極めて平等な目線を持つことは
現代を生きる私達にとっても
重要なことではないでしょうか。
最後は「ザムザ復活」より
この短編集の一番好きなシーン、
虫になった運命を受け入れそれでも
ザムザという誇りを失うことなく
生きていくことを誓った
力強く、崇高な
ラストシーンの語りで締めさせてもらいます。
ザムザは変態したのでした
「ザムザ復活」/メタモルフォーゼ
大きく翅のある
うつくしく、たくましい成虫に
そして ほこらしげに
飛んで行きました
虫が、虫らしく生きる
世界に向かって
最後まで読んで頂きありがとうございました。
ネタバレを含む内容になっていますが
是非皆様にも読んで頂きたい作品です。
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